博物館に寄せられた質問から(番外編 3)

名和昆虫博物館 名和哲夫

 今回は、博愛的な思想を持たれている方の質問をご紹介しながら、一般の方々の自然観を推察してみたいと思います。

【チョウが羽化してしまった!】

 2月に入った頃、年のころ50代後半くらいの女性の質問です。
 「去年の秋、庭先で見つけた幼虫を飼っていたの。その蛹から、今朝チョウが羽化したんだけど、どうしましょう?」
なぜか困った感じです。
「家の中は野外より暖かいので、早く羽化してしまったんでしょうね。それで、何か不都合でもあるんでしょうか?」
 「今野外に放しても花の蜜もなく、気温も低いのでかわいそうでしょ。」
 「はあ。」
 「何とか生かしてやりたいんです。」
 「砂糖水などをやりながら死ぬまで面倒をみてもらうこともできますよ。」
 「私は、この子を外に放してやりたいの。」
 「それなら放すしか………。」
 「でも、それでは死んでしまうでしょ。」
この人はいったい私に何を求めているのかとうんざりしかけた頃、
「博物館で引き取ってもらえない?」
「いやいや、うちはそういうことはしていませんので………。」
なるほど、この人の質問の意図がわかってきました。自分が関わった命をもとの野生に返してやりたいけれど、冬の最中に返したのでは、吸蜜源もなくのたれ死んでしまうでしょう。かと言って、チョウがそのまま死ぬのを見るのは嫌だし、というところでしょう。本人は命を大切にする優しい心の持ち主という姿勢を貫こうとしているのでしょうが、実は非常にエゴイストなのです。一度飼育をしたのなら、「死ぬまで面倒をみる」というのが自然愛好家の正しい姿勢です。飼育した個体をもとの自然に返すという行為は、自然をかく乱することはあっても、決して自然のためにもならないし、その種のためにもなりません。チョウの舞うシーズンなら、この人はためらわずに羽化したチョウを解き放ち、自分の優しい心も満足させることができたでしょう。しかし、真冬にのたれ死ぬのをわかっていながらそれをやるというのは、自分の心に傷がつくということでしょう。
「当博物館としては、一度人間の手で飼育したものを野外に放すのはやらない方がいいと考えています。今回のように数が少ないという場合は大した影響はないのでどのようにしても問題はないでしょうが、大量に飼育して放すと、虚弱な遺伝子を持った個体も過保護に育てられ成虫になってしまうかもしれません。本来成虫になる前に敵にやられて子孫を残せない個体が野に放たれるということは、その種にとっていいことではないと思います。」
相手の女性の姿勢に少しムッとしながら一気に話してしまいました。
 「じゃあ、私はどうしたらいいの。」
 「チョウが蜜を吸うところもかわいいものですよ。砂糖水などをティシュに浸して皿の上などに置き、チョウの左右の翅をそっと手で持って、そのティシュに止まらせてゼンマイ状にまかれた口を針か何かで伸ばして砂糖水のティシュの先につけてやってください。飲み出したら、持っていた手を離してもそのまま飲み続けますよ。」
すると受話器の向こうで少し興味をもたれたのか、
 「難しくないかしら。」
 「慣れれば簡単ですよ。チョウの食事中の姿を見るのも楽しいことだと思いますが………。」
 「一度やってみるわ。」
ということで、何とか落ち着きました。ここまでの所要時間、約30分。

【博愛的生命尊重思想の落とし穴】

 人類は、人類だけでは存在できません。当たり前です。食料を必要とするからです。食べるということはすなわち他の生物の命を奪うということです。昆虫は食べられることによって多くの動物たちの命を支えています。その動物をまた我々人類は食べるのですから、間接的に昆虫を食べていることにもなります。あるいはコメを確保するために農家の方々の手で気の遠くなるオーダーの数の昆虫の命を奪っています。これはコメを食べる消費者が行っている行為とも言えます。
それなのに見た目が美しいチョウなどを、たった1匹の命でも助けたいと願うというのは自然界から見た時、何ともアンバランスです。博愛的生命尊重主義は、人類という種だけに適用するべきで、人類以外の動物に当てはめると、当然矛盾が生じて、最終的にはその思想は破たんします。自然界のどんな生物も、他種を助けるために行動するものはいません。自分たちの種の繁栄のためにのみ生きているのです。他の種を積極的に助けることがあるとすれば、それはその種にとって役に立つからです。例えば、人類と家畜という関係のように。
どんな種も、絶対的な敵もいないし、絶対的な味方もいません。ある時は敵になりある時は味方になるのです。昆虫のいない世界では、人間を含めた多くの動物は生存できませんが、反面、昆虫の存在が食料の確保を困難にしたり、不快な生活環境の要因ともなり、不利なことも引き起こします。このような自然の流れを理解する努力をしないと、人類の絶滅を早めることになるでしょう。いずれにしても、昆虫を始めとした虫の多くの種より人類の方が早く絶滅するでしょう。少しでもその時を遅らせるための方法は、自然の流れをつかみ取ることしかないでしょう。昆虫からもっともっと学ばなくてはならないと思います。今回のご婦人にそれを理解していただくのは大変かもしれませんが、その努力は必要だと思います。その過程で、私自身も学ぶところが多いからです。ただ、目先の仕事に追われる現実の中で、このような質問に追われるのは正直きついですが………。

【ギフチョウを保護したい………】

 博物館には、個人、団体を問わずギフチョウの保護を目的として活動している人から質問を受けることがあります。なぜか皆さんギフチョウです。「春の舞姫」「春の女神」の愛称があるギフチョウは、保護したいと願う人が絶えません。
 もともとギフチョウがいる地域の方もあれば、今度公園を作るので、そこにギフチョウを飛ばしたいというかなり強引な団体まで様々です。いずれにしても、皆さん博愛的、ボランティア的な立場で保護しようとされます。

【保護という思想の誤り】

 このような質問の場合、最終的に理解していただくよう努力するのは、ギフチョウ(ギフチョウに限らずどんな種類の動物も同じですが)その種だけで存在できるものではないということです。
ギフチョウであれば、最も重要と考えられるのが、幼虫の食草であるカンアオイ類が生えていることです。カンアオイ類は、適当な木漏れ日のある雑木林に適応した植物なので、人の手が入って適度に枝払いや下草刈りが定期的になされる里山の雑木林のような環境が必要です。そこには膨大な種類の他の生き物が生息し、ギフチョウは、直接的あるいは間接的にそれらの生物と関わって生きています。天敵の存在も重要です。自分で数を調節できない生物にとって、自分たちの仲間がすべて育ってしまっては、たちまち食糧不足に陥り、危機的状況に立たされます。
つまり、ギフチョウを保護したいというなら、そこに棲む他の動物、クモ、ムカデ、ミミズ、カ、ハエ、ゴキブリなどなどありとあらゆるキレイ、キタナイに関わらず生物を保護しなくてはなりません。ギフチョウにとっての棲息環境を維持しなくてはならないのです。でも、誰もクモやムカデ、ゴキブリを保護しろとは言いません。この差別はいったいなんなんだと言いたいです。
 自然に向かって、人類が保護という言葉を使うのは驕りです。自分たちと自然との関係を見誤っているとしか言いようがありません。大自然全体を見る限り、人間が保護できる自然などありません。
 最終的にこの手の質問をしてこられた方々には、「保護しようとしても意味ない」ということを悟っていただく方向でお引き取り願っています。

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